中編では、傍聴した事件の概要をまとめました。
傍聴する前は、正直「ブログのネタになったらおもしろいよねー」という思惑がありました。
傍聴した内容をブログのコンテンツとして売ろうとか思ってました。
でも、実際に傍聴を体験してみたら、そんな気は失せました。
傍聴体験前にヘラヘラ書いた「前編」は消してしまおうかとも思いましたが、自分への戒めのためにあえてアップしました。
読んで嫌悪感を与えてしまっていたら、申し訳ないです。
後編は傍聴を本格的に体験してそれまでの自分を反省した件になります。
裁判は当事者にとっては人生のターニングポイント
裁判にかけられるというのは人生でそう何度もあることではないでしょう。
(再犯・累犯で変に法廷慣れしてる人もいますが…。)
判決が人生を変えます。
それは加害者だけでなく被害者も同じです。
当事者にとっては、この裁判が人生のターニングポイントなのです。
傍聴をエンターテイメント化することに違和感
傍聴した内容を面白おかしく書いたブログはけっこうあります。
中には「無料で楽しめる傍聴デート」をおすすめするサイトもありました。
傍聴に行く前は、そんなものを見ても大した感情は抱きませんでしたが、いま見ると嫌悪感を覚えます。
ちょっと想像してみてください。
「傍聴される方はどんな気持ちでしょうか?」
ぼくだったら嫌です。
「さらしもの」になった気分です。
勉強目的で傍聴する人はけっこういるみたいです。
今回も大学生の団体さんが10人ほどで傍聴に来ていました。ゼミかなにかでしょうか?
たとえ研究や勉強のためでも、みられる方は嫌ですよね?
どこの誰かもわからない人間に、自分の罪が裁かれる様子をさらされるのは、気分のいいものではないでしょう。
被告だけでなく傍聴席に座っている被害者や加害者の家族はどう思うでしょうか。
傍聴に行く前にちょっと考えてみてください。
「自分は何のために傍聴するのか?」
「趣味:人間観察」に違和感を覚えていた理由がわかった。
ぼくは「趣味:人間観察」という人が苦手です。
だって見ず知らずの人間に観察されて楽しくないでしょう。
「人間観察が趣味です」とかいう人にはちょっと近づきたくないです。
ぼくは趣味の一環として観察されたくないので。
傍聴席は柵越しに被告の様子を眺めて優越感に浸ること「も」できます。
その感じは、カフェのテラス席でのんびりとコーヒーを口に運びながら、あくせくと道を行き交う人をおもしろがる感じに似ています。
他人の不幸を高みの見物ができる場所は、そうたくさんはないでしょう。
傍聴席とカフェのテラス席ではそれができます。
裁判官や検察官、弁護人は事務的にみえる
実際の裁判でテレビドラマのように弁護士と検察官がバチバチやりあうことはありませんでした。
裁判長も木槌のようなものをカンカン鳴らしたりしません。
傍聴席でみていると裁判官や検察官、弁護人は事務的にみえます。
「期待はずれ」と思う方もいるかもしれません。
それはちょっとした「会議」のような雰囲気です。
最初に傍聴席に座った時は「意外と軽い雰囲気」だと感じました。
時に涙を流したり感情的になる被告人との間に温度差があります。
でも、アツくなっては務まらないのでしょう。
起訴状に書かれる罪は軽くても、法廷には人の一生がかかっています。
すべての事件を感情的に正面から受け止めていたら心が持たないと思います。
法廷の雰囲気が意外と「軽い」のは「重い」からなんです。
生きる環境で人は変わるのか?
法に触れてしまった人にも、もちろん責任はあります。
でも環境が違ったら、違う結果になっていたんじゃないかとも思うこともありました。
「社会が悪い」なんて簡単に片付けたくはないですが、生きる場所が変われば、人間も変わるんじゃないでしょうか?
ぼくも地域おこし協力隊として、島田市川根地区に移り住みます。
生きる場所が大きく変わるわけですので、ぼくにも変化が起きるでしょう。
都会暮らしで消耗して、心も身体も病んでしまう前に、生きる場所を田舎に変えたら、人生変わるんじゃないかと思います。
おわりに
静岡地裁を出たあとに右手が震えていることに気づきました。
ペンとメモを持って行きましたが、傍聴中にペンを握りしめていたようです。
気がつきませんでした。
傍聴はスリリングでおもろい体験かもしれませんが、「重い」です。
今日の判決は後日発表されるのですが、判決を傍聴するかどうかは悩んでます。
おもしろ半分で傍聴に通うなとは言いませんが、裁判をエンターテイメントとして楽しめる人とは価値観が合いそうにありません。
裁判の傍聴を初体験したら、おもしろ半分だった自分を反省した話(前編)
裁判の傍聴を初体験したら、おもしろ半分だった自分を反省した話(中編)
裁判の傍聴を初体験したら、おもしろ半分だった自分を反省した話(後編)←いまここ